《マクベス》

スコットランド王
在位1040年〜1057年


 

 

 シェイクスピアが名作『マクベス』を書いたのはいつか? その的確な年度はわかっていない。しかし最近の研究者によって、ほぼ1605年〜1606年のはじめ頃と推定されている。
 1600年からこの1606年はじめ頃までが彼の最も充実した時期であり、この期間に『ハムレット』『オセロ』『リア王』そして『マクベス』彼の4大悲劇が製作された。
 演劇舞台ではローレンス・オリヴィエ……ヴィヴィアン・リーの夫婦が1955年ストラスフォード・アボン・エイヴォンのメモリアル・シアターにて競演し、高い評価を得ている。

ヴェルディ10作目の《マクベス》……1847年フィレンツェ・ペルゴラ座初演/1865年改訂版パリ・リリック座

 マクベスとマクベス夫人・異常人格者……心理的に感情的に人間関係の真実を深く追求……邪悪で冷酷で恐るべき支配欲を有す。
 ヴェルディは、自分はシェイクスピアをよく理解していると思っているが、当時のイタリア人の文盲率の高さから、シェイクスピア作品に対してイタリア人が精通しているとは思われない。
 当時のオペラといえば男女の恋の葛藤、その行方、またその恋が政治的な絡みによる悲劇……そういうものを期待して劇場に来る観客が、中世スコットランドの貴族の異常な欲望、その悲劇となんの関係があるのか。ヴェルディは舞台の美しさより心理的、感情的にこの異常人格者二人の真実に重点を置いたが、果たして観客が理解したか。一方的に台本作家ピアーヴェが無能な人間と批判するけれどもヴェルディ自身も若干33歳、まだ機は熟していなかったのではないか?

ヴェルディの台本とシェイクスピアの戯曲の決定的な違いは多々あるが
 ヴェルディの台本に戯曲の1幕1場、2場が無く、1幕3場(重要なセリフがカットされている)から始まる。しかし1幕1場、1幕3場も戯曲では魔女の会話はマクベスを貶めようとする重要な場面である。 そしてマクベスは魔女たちに唆されるのである。難解な言葉が多用されているが、そこがシェイクスピアの素晴らしいところである。マクベスのこれからの悲劇が埋め込まれている重要な場面をヴェルディはカットし抜かしている。ピアーヴェの失策だけでは済まされない。
 そしてマクベス、バンクォー二人が魔女三人から予言を聞く場面が始まる。
 戯曲の冒頭1幕1場、1幕2場(戦果の報告)、1幕3場でカットされた部分に何があるのか……魔女の性格、ヴェルディの台本には出てこない前史……年代記によれば、かっての国王、ダフが西方諸島を征伐した時、王の居城のあったフォレスの魔女たちは島の住民に同情して王ダフを病気にした。マクベス夫人は王ダフの後裔である。そして今度のマクドナルドの反乱で、武将マクベス、バンクォーが鎮圧して凱旋の帰途、魔女に会うのだが、魔女たちはここでも西方諸島出身の兵士を指揮したマクドナルドに同情し、マクベスを誘惑,唆し破滅へと導くのである。
 マクベスはこの戦いに勝って、そして魔女の誘惑、唆しに負けたのである。
3の数字は魔の数字である。(魔女3人)雷、稲妻、雨の3つのうちのどの中で会うというのではない。魔女は常にこういう要素の中で活躍する。雷、稲妻、雨は当時の悪魔学によれば、魔女たちが最も強力にその力を発揮できる3要素で、魔女自ら引き起こし空気を濃くし、霧や汚れた空気の中へ身を隠し、それに乗って飛んでゆくと考えられていた。

1幕1場 フォレス、インヴァネス付近の荒野
3人の魔女……きれいは汚く、汚いはきれい。……呪文のようなこの言葉
Fair is foul, and foul is fair
 シェイクスピアが書いたエリザベス朝の美(fair)と醜(foul)との対照は今日の善(right)と悪(wrong)との対照に相当する根本的な価値感である。意味は、
 人間世界の美、善は魔女にとってはすべて嫌悪すべきもので、その反対に醜、悪はすべて魅力あるものである。悪魔の世界は価値転倒の世界である。そして悲劇「マクベス」もその主人公の意識と行動とが、なんらかの理由で価値転換、混同した男の悲劇なのである。善=バンクォー 悪=マクベスとも解釈できる。

1幕2場 野営地
 前述のマクドナルドの反乱の戦場の模様を部下がダンカン王に大げさな物言いで報告していて、王は武功を挙げたマクベスにコーダの領主と決める(この時点ではマクベスはまだ知らない)。
 グラミスの領主……父が亡くなり継承
 コーダの領主
 そしてスコットランドの王になる、というこの強烈な唆しにマクベスはまんまとハマッテしまう。これが一幕三場の魔女たちの呪いである。そこへマクベスとバンクォー2人が登場する。場所はヒース茂るあれ野原 マクベスは……
  こんな汚くてきれいな日は見たことがない……。
   So foul and fair a day I have not seen
 マクベスの言う意味は悪い天候と輝かしい勝利の事であるがそれだけではなく、魔女たちが丁寧に仕上げた呪いの効き目は見事、登場してくるマクベスは直ちに魔女たちの世界へ……きれいは汚く、汚いはきれい……である。マクベスの罪と悲劇がここに始まる。なぜにマクベスの心に「汚い」雲が湧いたのか?
 それは神のみぞ知るところである。シェイクスピアも魔女たちのモットー以外はなにも説明していない。だが、マクベス×魔女……オセロ×イヤーゴもこのような関係なのだ。なぜなら魔女との対面で、1回目は偶然に出会ったかも知れないが、2回目はマクベスがわざわざ確認しに魔女たちの居所まででかけている。この行動こそが「マクベス」=シェイクスピアがいかに魔女たちに重要性を与えているかがうかがえる。
 1幕はダンカン王が戦から帰ってフォレス城に……そして部下たちに戦勝の恩賞と祝辞、長子マルカムを次期後継者によろしく頼む……これらのことで有力貴族に対して祝宴をインヴァネス城=マクベスの居城で催すため移動する……ここで悲劇が起こる。

 1864年パリ・リリック劇場から「マクベス」を改訂するようヴェルディに進言した。そして1865年2月に改訂版が出来上がり4月21日上演された。
 初演(1847年)から改訂版(1865年)にいたるまで18年の歳月が流れる。この改訂版は1862年《運命の力》、1867年《ドン・カルロ》との間隙をぬって新しく書き改められたもので、音楽表現において主なものはオーケストレーションが依り充実し、ソプラノ(マクベス夫人)を全体的に重要視された。
 なぜ、マクベスがダンカン王を殺してまで王位についたか?そして第2、第3と殺人及び計画がエスカレートする、この動機について、
  ヴェルディの《マクベス》はシェイクスピアの戯曲よりもマクベス夫人に焦点を当てている。
 シェイクスピアの戯曲『マクベス』はマクベスのその動機について非常にミステリアス(Mysterious)な方法で3人の魔女を主原因にし、マクベス夫人を従にしている。
 1865年当時パリのある新聞が、ヴェルディはシェイクスピアに対する理解に欠けていると批判されたが、前述のようなことではなかっただろうか?
 ヴェルディは反論するが、歯車がかみ合わない。ヴェルディは《ジョヴァンナ・ダルコ》でもジャンヌ・ダルクを主役にせず、その父親が主役になっている。
 著しく変えている。畢竟ヴェルディの《マクベス》であると割り切ればよい。

バンクォーについて
 マクベスはバンクォーに以前から劣等感を持っている。
 魔女の予言で将来的にバンクォーの息子フリーアンスが国王になること。ダンカン王殺しの秘密を握られている事等で、バンクォーにお世辞を使ってこれから生き続けるわけにはいかない。よって、バンクォー、息子フリーアンスの殺害計画を練る。……しかし実行に当たりバンクォーの息子フリーアンスを取り逃がす。
 マクベスはそれ以後バンクォーの亡霊に悩まされ祝宴は台無しになる。祝宴に列席している貴族らはマクベスの行動を訝る。国王就任祝賀会……フォレス城にて……バンクォーの亡霊がでてくる(もちろんマクベスしかこの亡霊はわからない)。

マクベス夫人の歌唱について
 《マクベス》はソプラノが中心のオペラである。
 しかし従来のプリマ・ドンナの声と技巧を華麗に聞くのではない。声質もレッジェーロ(Reggiero)でなくドラマティコ(Drammatico)ないしはリリコ・スピント(Lirico Spinto)劇的で力強い声が要求される。それだけではない。ドラマに沿った歌唱(表現)を強くヴェルディは要求している。
 また、オペラの1幕2場、手紙を読む場面から始まる大アリアである。シェーナ→レチタティーヴォ→アリア……カヴァティーナ→カヴァレッタ→シェーナ→カヴァレッタで締める。そこにはアジリタを駆使し最高音3点Cまで歌いまくる至難の技である。

ヴェルディがマリア・カラスの声を聞いたらどのように反応するだろうか?
 私の感じではヴェルディは即座にブラヴォー! マクベス夫人に起用し大喜びすると思う。ヴェルディはマクベス夫人への指示は「邪悪で醜くて、そして堅い、つまった、暗い声になりうる声―つまり悪魔の声―でなければならない。と書いている。
 マリア・カラスが《マクベス》マクベス夫人を歌ったのは1952年12月ミラノ・スカラ座で指揮はヴィクトール・デ・サバタで、これが最初の最後であった。
 なぜ、最初の最後であったか永竹由幸著『マリーア・カラス』(東京書籍)に2、3の例を挙げて詳しく書かれている。
 もう一つの著『マリア・カラス』ステリオス・ガラトプーロス著、筒井雪路訳(音楽の友社)には「このスカラ座公演は素晴らしかった」と著している。1幕2場手紙を読む場面から始まる大アリアから……
 カラスは〈勝利の日に、わたしはそれらに出逢ったのだ〉という手紙を読むが、期待に反し、それほど効果的でない。しかし間もなく彼女は叙唱の〈あなたは野心に満ちていた……マクベス……あなたは高貴な位を望んでいた〉を歌ううち、自分を取り戻してくる。この叙唱を彼女は威厳と断固とした決断で歌う。〈さぁ、いらっしゃい! 急いで!〉のアリアと、その次のカヴァレッタ〈今やみんな目をさませ、地獄の精霊たち、そしてわたしを流血にかりたて〉は、まるで雌トラのような激しさで歌われる。ここで既にカラスの歌はヴェルディの明白に要求した悪魔的なものを帯びている。カヴァレッタの中で全く音楽という媒体を通して表現された激しい決断力は背筋の寒くなるような雰囲気を創り出す。それをさらに明らかに示すのは、彼女がマクベスにはほとんど声もかけないで、自ら王の殺害の手はずを整えるところである。内面的には非常に堅く張り詰めていて外面的には極めて平静を装って彼女の眼はすべてをマクベスに向かって語っている。彼女が〈ふくろうが彼の悲しい別れを告げる言葉に応えていますわ〉と詠唱するところには、意味の完結した一つの世界がある。
 〈不吉な妻!〉のデュエットは、マクベス夫人とマクベスの間に、殺害の後、交わされるものであるが、カラスは歌手としても俳優としてもここで見事なクライマックスに達する。野心に心を奪われて彼女は悪のイメージを呼び覚ますような声で歌い始める。〈衛卒に血をなすりつけて……そうすれば罪は彼らにかぶさります〉は、誠に恐怖をかきたてる。それに、これはオペラ全体にとって重要な見事なデュエットで彼女は内からほとばしリ出る力で、素晴らしい出来栄えを見せる。その後、
 マクベス……わたしは、もう行けない
 マクベス夫人……短剣をかしなさい(マクベスから短剣をすばやく取って王の部屋に入ってゆく……)。

 4幕2場 Gran Scena del Sonnambulismo (夢遊の大シェーナ)
 マクベス夫人が夢中歩行する場面でオペラはクライマックスに達する。したがってカラスも歌手としても俳優としても、その解釈表現力及び創造力の頂天に次第に達してゆく。彼女の動作、音の一つ一つが、ただもう完璧という他はない。
 動作の自由なこと、そして演唱の表現の豊かさなど、ただヴェルディの指摘高みに上り詰めているばかりでなく、シェイクスピアの傑作にふさわしいだけの誌的な高みに上り詰める。
 今にも亡霊が出そうな雰囲気を創りだすオーケストラ前奏の間、カラスは灯りを持って夢の中でふらふらと歩きだしてくる。彼女はちょっとの間明かりを下に下ろして、手を洗うしぐさでこすり合わせる。この手がカラスの願望するすべてを表現しているかのように見える。それから彼女は嘆きに満ちたピアニッシモで〈まだここにシミがある〉と暗い声で歌い始める。それはまるで噛み締めた歯の隙間を通して語るかのようで、実際に彼女は眠ったままそうしているかのような印象を与える。この場面全体を通して彼女は罪と恐怖に付きまとわれているかのような響きを持つ。彼女が〈一つ…二つ…あぁ、もう時間だわ〉と時を数える様は、この世ならぬ思いがする。彼女は例の有名な歌詞〈誰があの老人にあれだけの血があったと想像しただろう〉の中の「想像」という言葉を深い絶望に裏打ちされた力を込めて実に美しく歌う。そして〈アラビアの総ての香水を持ってきたってこの小さな手を清めることはできない〉の歌には、暗い力がこもる。このシーンが終わりは、この上なく柔らかなほとんど声の痕跡と言えないほどの声で彼女は歌い、それがDフラットまで上がると、最後に1オクターブ落ちる。それでも彼女が静かにまだ夢の中で歩き続けながら退場するときの〈さぁ行きましょうマクベス、行きましょう〉の上行したり下降したりするアルペッジョでもまだはっきりと耳に聞こえるのである。カラスはこのようにマクベス夫人の性格を描き出す。それはまことに人を痺れさすほどの、比べるものの無い演技である。彼女こそヴェルディの理想のマクベス夫人である。


なお、1952年12月7日、9日、11日、14日、17日スカラ座での《マクベス》プログラムから
指揮……………ヴィクトール・デ・サバタ
演出……………カール・エーベルト
マクベス夫人…マリア・カラス
マクベス………エンツォ・マスケリーニ
マグダフ………ジーノ・ペンノ
バンクォー……イタロ・ターヨ(7、9、14日)
       ジュゼッペ・モデスティ(11、17日)であった。