京都ヴェルディ協会  2019.3.21


ヴェルディとワーグナー


錦職昭彦(常務理事)

 

ジュゼッペ・ヴェルディ Giuseppe・Verdi(1813/10/10〜1901/01/27)

*イタリア・ロマン主義


1867年パリにて撮影


ロマン主義と言う言葉の定義は非常に難しい。この言葉を聞いて心に描くものは、漠然としたもの、不鮮明で、輪郭があいまいなものであり規律、節度、正義に対する反抗であり、ともすると理性,信仰すら破壊する。
一般にこの言葉が用いられるようになったのは18世紀末から19世紀にかけて現れた全ヨーロッパ的な文学、思想運動についてである。

なかでも、地中海沿岸諸国イギリス、フランス、イタリア等のそれらとドイツは完全に分離され進化する。
さて、ヴェルディの場合はどうだろうか?
イタリアのロマン主義はリソルジメント運動と重なる。国家統一とオーストリア、フランスからの開放、自由を享受することである。
ヴェルディが生まれた時代は、ナポレオン時代が終焉に向かっていたころである。生地レ・ロンコーレ村はパルマの町に属し、パルマの領主はナポレオンの二度目の妻マリー・ルイーズ(オーストリア皇女)であった。つまり生地はフランス領なのだ。二日後出生届けもフランス語で「1813年10月12日午前9時……ジョセフ・フォルテユナン・フランソワと命名する旨を申し立てる」と書かれている。政治的不安定な世に「宿屋」の長男として生まれたヴェルディは15歳のとき、この極貧から抜け出すため音楽家になる決心をする。19歳でミラノへ音楽修行に行くときもミラノはオーストリア帝国領のためパスポートが必要だった。その後ナポレオンの失脚により生地レ・ロンコーレ村はパルマ公国(オーストリア領)に戻る。パスポートの人相書き。背が高く、茶色の頭髪、黒い眉とあごひげ、灰色の目,かぎ鼻、小さな口、顔は痩せ型で青白く、あばたありと書かれている。

文学的にはアレッサンドロ・マンゾーニ(1785/03〜1873/05)が「ロマン主義について」(1823年)を発表、神話と古典への盲従を排し、有益、真実、おもしろさを追求する趣旨の論文を書いている。また歴史小説「いいなずけ」(1825□26年)はトスカーナ(フィレンツェ)語で書かれている。彼はイタリア語の統一を目指しトスカーナ語を基本に近代イタリア標準語の確立をした。オペラについては〈舞台=音楽ドラマ〉であるべきだ、と要求している。
周知の通りヴェルディはこのような彼の精神を崇拝していて、彼の死(1873年)に対し「レクイエム」を作曲、一年後死者のためのミサ曲が力強くマンゾーニのために演奏された。
ちなみにスカラ座正面玄関の電車道はA・マンゾーニ通りと命名されている。
シルヴィオ・ペッリコ(1789/06〜1854/01)は文筆家からイタリアの開放戦士としてオーストリアの圧制にたち向かい投獄され10数年後釈放されている。その体験をもとに「獄中記」(1832年)を発表、リソルジメント運動とイタリア・ロマン主義を合体させイタリア人を覚醒させた。

リソルジメント運動の先駆者たち
ジュゼッペ・マッツイーニ(1805/06〜1872/03)政治家
ジュゼッペ・ガリバルディ(1807/07〜1882/06)軍事家
カミッロ・カヴール(1810/08〜1861/06)政治家、
彼らと共にヴェルディは音楽、マンゾーニは文学を通して、イタリア人をリソルジメント運動へと駆り立て、イタリア独立への悲願へと突き進めた。
ヴェルディは1859/09/15宰相カヴールからの要請で国会議員になるがカヴール急逝したため辞職する。

ヴェルディの先輩オペラ作曲家たちの場合はどうであろうか?
政治には関与しなかった。作品で検閲に引っかかっても他国で初演をする。
ロッシーニ(1792/02〜1868/11)1823年パリへ
ベルリーニ(1801/11〜1835/09) 1833年パリへ
ドニゼッティ(1797/11〜1848/04)1834年パリへ

*思想と宗教とサンタ・アガータ(Sant’agata Villa VERDI)
生涯にわたって、絶対的自由を勝ち取る目的(日常生活でのルールとか慣習に対して)と貧困農家に生まれたヴェルディは、根っからの農業人であり、オペラ作曲家として大成するが土地に執着し農業経営をも怠らなかった。1848年35歳の時、農地を購入、以後買い増しにより最終約33万坪に及ぶ大農地を取得し、家屋の補修、増築を終え、この地を作曲活動の拠点とした。
イタリアを愛し、故郷を愛し、そして故郷の畑(サンタ・アガータからポー川河畔まで33万坪農地所有)を愛した農民である。鍬、鋤の一振り一振りに大地を愛し、大地からの収穫物に霊性を見出し、そこから自らの哲学を学び自然と共に生きる。
ヴェルディはカトリック教徒であるが聖職者を嫌った反教会の立場を通す。
そのためサンタ・アガータの屋敷に個人の礼拝堂を設けていた。
しかし妻ジュゼッピーナの話によると、この礼拝堂で敬虔なる祈りを捧げている姿を見たことがない。と言っています。(ヴェルディはブッセートの大教会のオルガニストとして少年時代に採用試験を受けるが不採用になる。これも聖職者嫌いの大きな原因となる)
「ドン・カルロ」における宗教裁判長、独断=ドクマ一辺倒の聖職者である。
また「オテッロ」におけるイヤーゴのクレド、カトリック教会を痛烈に批判する。このクレドとは本来、教会が指し示す神と信者との誓約文のことであるが「オテッロ」でイヤーゴが語る<クレド>はヴェルディが名付けたものである。オペラでは、イヤーゴがキリスト教を痛烈に批判、デズデーモナは神を信じ『アーメン』を繰り返す。つまり対称にしてバランスを取っているのだ。
政治、文化におけるカトリック教会の箍が緩み信仰すら破壊するロマン主義傾向へと流れが変化する。これらを観れば理解できよう。
彼の作品群ではキリスト教によって救済されるのではなく、運命論的な結末で終わる作品が多い。つまり自分の行い、業(ごう)、行為によって因果応報が生まれる。冷徹なまでに自己の心の内面と向き合い、苦の根源を探る。非常に原始仏教的である、これは、農業(自然の営み=世界共通)から培われた思想である。決して神に起源を求め、イエス・キリストに従って自ら苦しみを負うて、救済者その人との合一を求めて祈る、極めて他力本願では救済されないとヴェルディは言っているのだ。特に「ステフェーリオ」(1850年)から後の作品に多く見られる。運命論者である。まさに「運命の力」は教会への不信を表現したドラマである。そして又メロドラマ歌劇も「運命の力」以降姿を消す。

*ヴェルディの性格
……狷介不羈な大作曲家(ジュゼッペ・タロッツィ著小畑恒夫訳草思社)
狷介(けんかい)気短、せっかち、頑固、かたいじ
不羈(ふき)絆がない、繋がりがない。細かい。本心を容易に明かさず。無口。
論文を書かない。論文がないので後世の研究者はヴェルディが書いた手紙で何
事も判断している。しかしこれには諸般の事情がある、ヴェルディが生きた時代
イタリアはオーストリアに占領されていた。検閲が厳しく論文は自分の意志を
伝える。一々検閲を受け、悪ければお縄頂戴である。馬鹿馬鹿しい。
私生活を隠し、社交活動はしない。人に頼むこと、好感を得ようとすること、頭を下げることが出来なかった。
1867年1月父親の死、1867年7月大恩人A・バレッツィの死、イタリアにワーグナー旋風が吹き荒れる諸々の理由で、無愛想、頑固、偏屈、猜疑心がより強くなり、ワーグナーに対して自負心がますます強くなる。
1863年「ドン・カルロ」の構想が浮かび上がったころのイタリア国内での音楽事情、なかんずくワーグナーへの研究が音楽家のなかで盛んになりワーグナー旋風が萌芽しはじめた。ヴェルディはこのような事情を察知、胸中、穏やかでないものが徐々に膨らんでいった。

「ローエングリーン」イタリア初公演
1871年イタリア国内において、ワグネリズムが最高潮に達していた。そしてその年の11月1日ボローニャのテアトロ・コムナーレで「ローエングリーン」(イタリア語版)がイタリア国内で初めて公演されたのである。(シーズン前半が終わる11月末日まで週に3、4回の頻度で催された。)

翻訳 サルヴァトーレ・マルケシ 演出エルンスト・フランク(ウイーンのコレペティトゥア)指揮アンジェロ・マリアーニ
*ローエングリーン イタロ・カンパニーニ、*エルザ ビアンカ・ブルーメ、
*テルラムント ピエトロ・シレンツィ、*オルトルート マリア・レーヴェ・デスティン、*ハインリヒ王 ジュゼッペ・ガルヴァーニ達であった。

主導的ワグネリアンの中にはアリゴ・ボイト、アンジェロ・マリアーニ、当時のボローニャ市長カミロ・カザリーニ、そしてジョヴァンニーナ・ルッカ(1814〜1894 ルッカ出版者)達がいて、彼らの協力によって初演が行われたのである。ワーグナーは1868年イタリアでの版権をルッカ社に売却している。この公演に際してワーグナーとの交渉はルッカ社があたった。1871年10月23日「コジマの日記U」によると、ワーグナーは“リハーサルには行けると思うが、ご招待頂いた第二回目の公演でカーテンコールを受けるのは到底無理だ”と告げたとある。結局ワーグナーは来なかった。
その理由をワーグナーサイドの1871年の年譜等を参考に拾ってみると
2月「ジークフリート」総譜完成
4月バイロイトに立ち寄り、同地に理想の祝祭劇場を建てる決意をする。
5月ドイツ宰相ビスマルクに謁見
6月カール・タウジヒ、チフスで急逝
10月「神々の黄昏」第二幕作曲スケッチ完成
11月バイロイト市代表委員会議長を務める銀行家F・フォイステル宛に祝祭劇場建設の意見書を出す。11月1日「神々の黄昏」二幕オーケストラ・スケッチに取り組む。
12月バイロイトへ。劇場建設用地検分。とあり、事務的なことにまでタウジヒ死去に伴い自分でしなければならなかったことが良くわかる。
しかしワーグナーは行けなかった理由を次のように言っている。
“すべてをイタリア人の芸術的感性に委ねようと考えたからである。”と。
コジマの日記V 11月2日ボローニャからの電報によると「ローエングリーン」は、かの地の人々に底知れぬ感銘を与えたようだ。
11月5日ボローニャからは「ローエングリーン」の成功を伝える数え切れぬ程の手紙とある。

ジョヴァンニーナ・ルッカ(Giovannina Lucca 1814〜94)
フランチェスコ・ルッカの妻で婚前の名はジョヴァンニーナ・ストラーツァー。
ミラノの調理済食品販売店の娘。20歳で結婚、夫はリコルディ社とはコンペチターで不仲であった。1872年死去するが、その数年前から経営を任される。
彼女の性格も粗野で悪名高い。ヴェルディは初期の作品「アッティラ」「海賊」「群盗」をルッカ社のために書いたがこれ以後、ルッカ社とは絶交している。

ヴェルディは11月19日にピアノ・スコアを持参、極秘でこの公演を見に会場へ来るが、すぐにばれてしまう。歌手、合唱団はあがってしまいこの日はベストの公演とは言えなかった。
さて、当日のヴェルディ評(反応)が気になるところである。日本語に翻訳されている評伝から抜粋する。
@ ジュゼッペ・タロッツィ著「評伝 ヴェルディ」(小畑恒夫訳)
「ローエングリーン」には衝撃を受けるが、同時にオペラの進行が恐ろしくゆっくりで、静かでまわりくどい。
美しいがヴァイオリンの高音が続くので息苦しくなる。
このフィナーレは美しく、神秘的。……遅すぎる……フォルテ過ぎる
全体の印象は平凡。音楽は美しい。明快なところには思想がある。劇は台詞と同じ速さでゆっくり進行する。したがって退屈である。
Aウイリアム・ウイーヴァー著「イタリア・オペラの黄金時代」(大平光雄訳)
ピアノ・スコアに書き込まれた詳細なメモを要約すると、平凡な印象、音楽は美しく、明快で思索に富むところもある。筋の運びは台詞と同じようにゆっくりと流れる。それゆえ退屈である。楽器の効果は美しい。持続音の濫用のため息苦しくなる。平凡なでき、生気は多いが、詩も優雅さがない。複雑で難しいところになると大体よくない。
以上の通りであるがヴェルディの性格を考えると「ローエングリーン」に心から興味を持ったことは確かではないだろうか?

サンタ・アガータの書斎のキャビネットにいろいろな作曲家の総譜かピアノ・スコアか判別できなかったが、無造作に置いてあった。
それらの中にワーグナーの作品「ローエングリーン」「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルグの名歌手」「ワルキューレ」そして「パルシファル」がある。これらの収集はこの公演を観てからと考えられる。
そして、ヴェルディはワーグナーについて、ワーグナー作品の総譜の研究、理論書を読むが、自分の思想を人に押し付ける独断論、神話に基づく世界観等は嫌ったが、想像力は賞賛している。

*ヴェルディのなぞ
ヴェルディはこの「ローエングリーン」観覧から「オテッロ」の初演まで約15年の長い道のり、何を得、どのような行動をしていたか?

主だったものを記す。
1872年2月8日「アイーダ」ミラノ・スカラ座ヨーロッパ初演大成功。
アイーダ=T・シュトルツ。カイロ・オペラ座初演(71/12/24)から約1月半後であった。
1873年4月1日「弦楽四重奏曲 ホ短調」作曲、ナポリ初演
5月22日A・マンゾーニ死去
1874年5月22日マンゾーニのための「レクイエム」作曲、ミラノ・サンマルコ教会で初演、指揮ヴェルディ。
1875年パリ・オペラ・コミック座七回(フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章を受賞)、ロンドン・アルバート・ホール、ウイーン・宮廷歌劇場での「レクイエム」演奏旅行、指揮ヴェルディ(フランツ・ヨーゼフ皇帝から金メダル受賞)11月ワーグナー鑑賞する。
1876年パリ・イタリア座「レクイエム」三回、「アイーダ」四回指揮
1877年ケルン「レクイエム」演奏旅行
1879年ミラノ・スカラ座「レクイエム」
1880年パリ・オペラ座「アイーダ」、ミラノ・スカラ座「アヴェ・マリア」初演
1881年3月24日「シモン・ボッカネグラ」改訂版スカラ座
1883年2月13日ワーグナー死去
1884年1月10日「ドン・カルロ」四幕改訂版スカラ座であった。
演奏旅行の主目的はイタリアにヴェルディあり というPRではなかったか?
ワーグナーに対する自負の心、しかし十数年間、頭にこびりついていた、その男が死んだのだぁ
「アイーダ」「ドン・カルロ」の大成功によりイタリア・オペラの頂点に立つ。
畢竟ヴェルディは誇り高き男であり、イタリア人というアイデンティティは見失うことは無かった。
そして1887年2月5日「オテッロ」ミラノ・スカラ座で初演、大成功する。

*ヴェルディ語録
♪科学はあらゆる民族に共通であるが、芸術は民族独自の特性を保っていなければならない。
♪1892年H・V・ビューローから“音楽同盟をはかろう“との申し込みに際しヴェルディは、我々はパレストリーナの末裔であり、あなた方はS・バッハの末裔である。
♪この太陽、この空の下で私が『トリスタン』を描くことができると思いますか。

「ファルスタッフ」の最後のセリフ……ヴェルディの意図とは?
“……でも、最後に笑うものこそ、本当に笑っているんだ。”
これは「ファルスタッフ」での劇中のセリフではない。ヴェルディ最後の作品を自覚し、作曲家として最高の作品が出来た喜びをセリフにしたもので、イタリアの先輩ロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティ三人に対して、またワーグナーに対しても人生の最後に勝利した。(長生きしてよかったワッハッハッハァ)

*ヴェルディとパリ・オペラ座
「イエルサレム」初演1847/11
「シチリアの晩鐘」初演1855/06
「ドン・カルロ」初演1867/03/11
いろいろな政治的な問題もあるがワーグナーとは好対照である。パリ・オペラ座そしてパリをこよなく愛した。

*女性の力
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(Giuseppina Strepponi 1815〜1897)
1839年11月「オベルト」ミラノ・スカラ座、初演の仲介役をする。
1842年3月「ナブッコ」アビガイッレ役で大成功。また「ナブッコ」初演に向けてヴェルディを手助けする。1843年秋パルマで公演中、ヴェルディが訪問、将来について会話が進む。その後1846年2月歌手引退、パリで歌の教師として自立。ヴェルディと同棲する。ヴェルディのマネージャーとして手助けする。長い同棲生活の後、1859年8月ヴェルディと結婚。この結婚はヴェルディが国会議員になったため、国会議員が女と同棲している訳にはいかず、切りをつけた。1863年冬ジェノヴァでT・ストルツと初対面、1869年以後死ぬまで彼女とヴェルディとの関係に悩まされる。ヴェルディのオペラ作曲、公演等第一作目から、しっかりとサポート、彼女がいなかったらヴェルディの作曲活動はどうなっていたか?
テレーサ・ストルツ(Teresa Stolz 1834~1902)チェコ(ボヘミア)出身
アンジェロ・マリアーニ(Angelo Mariani 1821~1873指揮者)と婚約解消、ヴェルディと深い仲になる。怒ったマリアーニは「アイーダ」カイロ公演を蹴る。
彼女の力強い良い声質により「運命の力」「ドン・カルロ」「シモンボッカネグラ」が蘇り「アイーダ」1872年2月ミラノ・スカラ座、ヨーロッパ初演が大成功、「オテッロ」(1887年)「ファルスタッフ」(1893年)が作曲された。

ヴェルディとマイアベーア(1791/09/05〜1864/05/02)
*プロイセン(ベルリン)のユダヤ系銀行家、裕福な家庭に生まれる。
プロイセン音楽総監督(1842〜1846)である。パリで大人気大成功を収める。
マスコミを上手に扱う。パリ・オペラ座は彼の作品で収益が大きく伸びた。
*オペラのドラマツルギーとして、フランス・グランド・オペラ発展の先駆者として貢献。ヴェルディはグランド・オペラの舞台としてマイアベーアを評価。自作のグランド・オペラ「シチリアの晩鐘」「ドン・カルロ」「アイーダ」で大成功する。
*しかし男女の愛を歌いあげる旋律作りで、甘美さがなく技術的には今一とヴェルディの評価は厳しい。

その他
1888年ポー川河畔ヴィラノーヴァに病院を建てる。
ピアーヴェの死、両親の死等、身近な大切な人々が病気で亡くなる。彼らの死に就いて、じっくり考える。金が無ければ医者に係れない。自分の大規模な農場で働く農民も同じことではないか?彼らのためにも病院が必要である。
ヴェルディの遺志を継ぎ、現在この病院は福祉病院になっている。
1899ミラノ「やすらぎの家Casa di Riposo」を建て、社会的貢献をする。
貧しく、年老いて忘れられた音楽家たちのための住宅施設である。
1901年2月26日ジュゼッピーナとともに亡骸をここへ運び礼拝堂に葬られた。そしてヴェルディの後を追うようにT・ストルツは1902年8月23日死去。この「憩いの家」に埋葬された。

参考文献
『評伝ヴェルディT・U』ジュゼッペ・タロッツィ著、小畑恒夫訳草思社
『イタリア・オペラの黄金時代』ウイリアム・ウイーヴァー著、大平光雄訳、音楽の友社
『ヴェルディ』ハンス・キューナー著、岩下久美子訳、音楽の友社
『コジマの日記U・V』三光長治、池上純一、池上弘子訳、東海大学出版社
『ワーグナー』クルト・V・ヴェステルンハーゲン著、三光長治、高辻知義訳、白水社
『ロマン派からヒトラーへ』ピーター・ヴィーレック著、西条信訳、紀伊国屋書店