なぜオペラは進化し続けるのか?ナゾを解くカギ         読み込み→読み替え��

                                   2015年 1月 1日  錦 職 昭 彦



「オペラってなんだろう?」
あるひとはテノールが、ソプラノが、アクート唱法で人間の声の限界をさまよい歌うことを今か今かと待ち、ぴしゃっと決まれば大喜び“あれは名歌手だ”と。まるで銀盤で4回転ぴしゃっと決まった時の観衆の大喜びの姿と変わりがない。
又ある人は、“いや、それだけではない、やはり音楽と物語(舞台)が同化した普遍的総合芸術なのだ!”という人もいるだろう。間違った考えではないだろう。
作曲者、その音楽、物語、その演出等それぞれに解説、研究、論評がなされてきて現代に至っている。
所詮オペラ、クラシック音楽はヨーロッパ・キリスト教文化の遺産であり、その後もその時代に順応し発展、制作された。18世紀後半フランス大革命によりヨーロッパ各国で貴族社会が崩壊してゆく中、キリスト教共同体の組織が崩壊することはなかった。
19世紀中ごろ、ヴェルディが大活躍している時は、まだ作品の中身の検閲が厳しく彼は非常に難儀した。つまりキリスト教倫理に違背するような言動、政治的危険分子の排斥である。しかし時代が大変革をもたらす中、価値観の多様化が進みキリスト教倫理で人心を掌握することが困難になる。
そして、1871年イタリアは完全独立国になりローマ・ヴァチカンは政治から距離を置くことになる。そんななかで作曲された芸術作品の内容もキリスト教倫理の箍が外され自由な表現へと進んでゆく。「オテッロ」はその好例でありキリスト教倫理(ドクマ)を嘲笑する作品である。(ワーグナーの「タンホイザー」の最後、タンホイザーは贖罪の旅へとローマに行くが、教皇からも呪われ、また揶揄されるが、奇跡が起こる。ストーリーの流れから考えると、取ってつけたような考えもできる。)
しかし、そのヴェルディの作品中には、まだまだその箍がはまったままの作品が多く残ったことも事実である。現代社会のわれわれの感覚と倫理観、死生観、価値観等齟齬が生じる。「ラ・トラヴィアータ」「運命の力」「ドン・カルロ」等は良い例である。
そしてこのようなオペラを現代人が観る場合、現代社会人の観念とオペラの作品中の観念に、非常なずれが生じ“こんなバカな話があるかいなぁ、ばかばかしい“と現代人はオペラを過去の遺物として捉えてしまう。若者がオペラ嫌いになり寄り付かない原因である。決して高額の鑑賞費用の問題だけではあるまい。
事実クラシック音楽演奏会の会場には若者が圧倒的に多いではないか。

ここにオペラのアクチュアリティへの極めて重要な問いかけ、疑問を解決せねばならなくなる。
昨今よくオペラは非日常的であると言われるが、2009年6月8日びわこホールにて、ペーター・コヴィチュニーが「オペラの演出」を語ると言う題目の中で、彼は、「オペラは非日常的でなく日常的でなければならない。」と言っている。 したがって「舞台、衣装等も日常的であるべきだ」と哲学を披露、喝破している。西洋絵画でも戦勝場面、英雄,皇族の美人画等から日常生活の何でもない所作、台所で働く女性、畑仕事をする夫婦等生活に密着した絵へと価値観の変化が生じてくる。日本では禅の精神を取り入れた茶道、俳句、田楽、猿楽等、皆日常生活から生まれている文化が芸術へと昇華するのである。

「温故知新」
話をオペラに戻そう。つまり、日常的オペラにするためには、そのオペラのテキストを何回も読み込み、それを現代社会の倫理観、死生観、価値観に照らし合わせ多角的に解読され、作曲者は何を言いたいのか、「真実」は何か?ということを突き止める。こういう作業が古典、歴史物には必須問題であり、これがオペラ、演劇では「読み替え」と言われるものである。
そこには思弁、仮説は演出者の技量になり、どんどん表現されるのである。極端なことを言うと我々の先輩諸氏が書いたオペラの研究書、解説書、論評は現代社会にそぐはなくなってきている物が多い。従ってその作品のテキストだけが重要である。またその作品の作曲者の意図、つまりプロト(原型)を個々人が別のチャンネルで理解していればよいことになる。
例えば作家としても知られているルートヴィヒ・ティークは、ドレスデン宮廷劇場で1829年夏にゲーテが書いた「ファウスト・第一部」の上演でファウストの罪業を強調する為、プロローグの天国の場面やヴァルブルギスの夜の場面を削り、ファウストに神の恩赦が与えられる終幕を地獄の場面に変えてしまった。 倫理的な立場から主人公を批判的に解釈するファウスト公演は現代ではしばしば見受けられるが、そのような批判精神とオリジナルの変更が作者ゲーテの存命中に試みられたことは注目に値するだろう。(平田栄一郎著「ドラマトルク」より)ドイツでは、おぎゃぁと生まれた時から日常茶飯事なのである。
私が2010年5月25日ヴェネチア・フェニーチェ歌劇場で観たオペラ「ドン・ジョヴァンニ」は前例とは反対に最終場(エピローグ)でドン・ジョヴァンニは登場人物全員に金をわたして処刑を免れるのである。畢竟「この世は金次第である。」この歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は昔からいろいろな解釈で演じられてきた代表作品であるが・・・ちょっと驚いた。
これらの例で示した通り、現在われわれが鑑賞しているオペラはアクチュアリティに引きずられて「読み替え」が激しくなる。

「ヴェルディとワーグナーの場合」
ヴェルディ(イタリア・オペラ)とワーグナー(ドイツ・オペラ)のオペラを比較すると、もう一つの「読み替え」の原因が顕在してくる。
ワーグナーは自著「オペラとドラマ」で音楽を女性、詩文(テキスト、台詞)を男性に例えている。この有名な比喩は、つまり「音楽と詩句が同等であらねばならない。」と言っている。そしてまたそのテキスト、彼が書く文章は多義的なものが多く、出来上がった楽劇は幾重にも「読み替え」可能になる。
一方ヴェルディは、テキスト(台詞)はできるだけ簡潔、明瞭に、それでいて真理を言い表す、まるで日本の「俳句」のようなものを考えていたのではなかろうか。俳句は少数の言葉で宇宙の真理をついているのだから。しかし、この俳句的な表現も、「音楽の従順なる下僕である。」と言っている。
テキスト(台詞)に対しても二人は非常に違った考え方で作劇され、「オペラ」「楽劇」を作曲したのである。
ここにヴェルディ語録を数例挙げてみた。
①科学はあらゆる民族に共通であるが、芸術は民族独自の特性を保っていなければならない。
②イタリア、この太陽、この空の下で、わたしが「トリスタン」を書くことができると思いますか?
(ヴェルディにとって「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルグの名歌手」等は一番遠い国の話であったのではなかろうか?)
③1892年H・V・ビューロから「音楽同盟をはかろう」との申し込みに際してヴェルディは、我々はパレストリーナの末裔であり、あなた方はS・バッハの末裔である。
(事実、「ニュルンベルグの名歌手」はS・バッハへの畏敬の念と、同胞としてのアイデンティティを示しているのである。)
これら語録から見ても、ヴェルディはオペラ界のグローバル化を嫌ったし、興味がなかった。それは何故か?ヴェルディは答えます。YES I’m Farmer と。 イタリアを愛し、鍬、鋤の一振り一振りに大地を愛し、そこに霊性を見出し、大地から哲学を学んだ。非社交的だ!と言われる所以である。
そしてヴェルディのオペラ作曲の題材は歴史ものであっても、そのまま音楽をつけるのではなくて、現在自分が生きている時代の精神的、政治的倫理に置き換えられるかどうか。これが肝心なのである。作品を見れば良くわかる。

「果たしてオペラの運命は今後どうなるのだろうか?」
この問いに対して一つの答えがある。それはヴェルディの「オテッロ」である。シェークスピアの原作を凌駕すると初演当時から言われてきたこのオペラ。 テーマは反神と人間の嫉妬である
たとえば2幕2場イヤーゴが謳う(レチタティーヴォかアリアか。レチタティーヴォ的アリアか)「クレド」、ヴェルディ=ボイド二人のテコ入れにより原作よりも極めて恐ろしく、反神的に作られた台詞(詩句)、イヤーゴの性格が極めて悪魔的にはっきりと表現されている。“La morte e il nulla. E vecchia fola il Ciel(死はすなわち無だ、天国などは古臭いバカ話だ!)カトリックのおひざ元での「オテッロ」初演、大成功をおさめたのである。
これら内容を「読み替え」する必要が現代社会においてどこにあるだろうか? 「オテッロ」はアクチュアリティに左右されるオペラでは全くない。

ヴェルディとワーグナーとは同時代の作曲家であり、現在世界中でのオペラ公演で約80%をこのふたりで占めている。はたしてオペラ芸術は永続するだろうか?そして「読み替え」は?

現代社会に生かされているあなたへ
自身の家族をどう思いますか?宗教、親子愛、夫婦愛、兄弟姉妹の愛等々を。
そしてこれらの普遍性とは?
オペラはアクチュアリティ=現代的問題性を突き付けているのです。